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シャープが長年培ってきた液晶の技術を潜熱蓄冷材の開発に応用し、スポーツ分野で成果を挙げている。2019年には競技前のプレクーリングの効果に着目し、スポーツ用品メーカーやアスリートのトレーニング指導などを手掛ける会社とともに、手の平を冷却して深部体温の上昇を抑制する「暑熱対策グローブ」を製品化した。+12℃をキープできる蓄冷材は、競技のブレイク中に筋肉を適度にクーリングする素材としても注目されている。人に役立つ“適温(TEKION)”について研究を続ける、内海夕香氏に話を聞いた。
(インタビュー・文/ノトヤ ナオコ 撮影/黒滝 千里〈アマナ〉)
あるとき私が指を骨折したのですが、その時に医師や理学療法士から「痛み物質が拡散するのを防ぐために、氷で冷やすように」と言われました。でも「長く冷やすと凍傷になるので20分以内で」とも言われまして、「え?」と。確かに0℃で冷やし続けると痛みが出てきて、それが骨折の痛みなのか凍傷寸前の痛みなのか分からない。このまま冷却を続けてよいのかどうか素人では判断できないし、血行障害を起こしそうで心配になったので、このような場合の適温、人体を適切に効果的に冷やすための適温というものがあるのではないかと考え、「TEKION LAB」の蓄冷材なら任意に設定した温度を一定時間キープできるので、これを応用して何かできないかと思ったのです。
2010年に、エネルギーに関する新規材料を開発しようというミッションが立ち上がったことが始まりですね。エネルギーとは、光、電気、熱を意味しますが、当時のシャープは光の分野で太陽光パネルを、電気の分野では電池をすでに開発していました。残された熱の分野は手つかずだったので、液晶の技術を応用する研究が始まりました。
液晶とは、固体と液体の両方の性質を持つ中間の状態です。液体のようなどろどろとした相でありながら固体のような特性も持ち、そこへ電圧をかけることで分子の向きが変化し、表示が可能になります。しかし冬のスキー場で温度が下がると固体化し、夏のビーチで温度が上がると液体化してしまう。これを相転移と呼びますが、液晶においてはこの相転移が起こる融点と凝固点の幅をできるだけ広げ、どんな環境下でも液晶の状態を保てるように工夫をしてきたわけです。
ではなぜ液晶の技術が熱エネルギー材料の開発につながるかといえば、相転移にはもの凄いエネルギーの出入りがあるからなのですね。相転移温度を変える液晶の技術を応用できないかと考えたのです。氷は0℃で融けて水になるときに、周囲の熱を奪いながら固相から液相へ変化します。そこで、水を主成分としてさまざまな化学物質を組み合わせ、液体が固体になる凝固点と、固体が液体になる融点とを自在にコントロールし、設定した融点の温度を長く保つ独自の材料を開発しようと考えたのです。冷凍庫で固体化させた蓄冷材が融け始める温度を0℃以外の任意に設定することで、適温を必要とする様々な用途に使えないか、ということですね(図1)。
しかし、開発に着手した当初はシャープの製品に載せることを考えていたので、人体の冷却につながる発想は全くありませんでした。最初の製品は2014年、停電の多いインドネシア向けの冷蔵庫に搭載する蓄冷材としての開発でした。
東南アジアの駐在社員が、日中に数時間停電していたことを知らずに帰宅し、冷蔵庫の食品を食べてお腹を壊してしまったのです。そこで、冷蔵庫の庫内温度の+5℃を凝固点とし、+10℃を融点とする蓄冷材を開発しました。停電の際には+10℃で融けますが、その後液体になるまでの数時間は+10℃付近をキープするので、食材の状態が保たれます(図2)。従来の保冷材は冷凍庫でしか凍らせることができなかったので、これは画期的な製品でした。蓄冷材を搭載した冷蔵庫は2016年にエジプトにも展開しました。
液晶では凝固点と融点の間をできるだけ広げる努力をしてきましたが、この蓄冷材ではできるだけ近づける研究をしたわけです。現在では、-24℃から+28℃までの間で12段階の融点を設定することが可能になっています。そこには、凍結する凝固点を0℃以上に上げる、という隠れた技術もあるわけです。
そして2017年に、「適温で幸せを届けたい」というコンセプトで様々な可能性を追求するため、社内ベンチャー「TEKION LAB」が発足しました。
まずTEKION LABが蓄冷材を通じて提供するべき価値を、「3つのC」に定めました(図3)。適温での美食体験を演出する「Cheer」、最適な温度管理で物流に貢献する「Confidence」、そして適切な温度で快適な気分を味わっていただくための「Comfort」です。
停電もない日本市場では、やはり人の生活温度帯に貢献する製品を作ることが良いだろうと、この3分野に絞りました。最初に形になったのは2017年の酒造メーカーとのコラボレーションです(参考資料1)。日本酒の需要は「夏の1本は冬の10本」と言われるほど夏場に落ち込むことを知り、「では、夏に-2℃の氷点下で飲んでみては」という発想から、蓄冷材を入れた保冷バックを開発したのです。これは、クラウドファンディングサービスにて販売され(参考資料2)、限定3,000本の完売を達成しました(図4)。
2018年にはワインセラーメーカー(参考資料3)とのコラボレーションで、赤、白、スパークリングそれぞれの適温をワインセラーから出した後も食卓でキープできる保冷ケースを発売(図5)しました。美食の「Cheer」の分野では一定の成果を出すことができました。
食品の物流には冷凍・冷蔵・常温の3温度帯があり、それぞれに適切な温度を数時間キープできる蓄冷材ユニットの開発を行っています(図6)。しかし、いずれの分野でも苦労したことは、シャープはやはり電機メーカーだということ。これまでにない開発を行っていたので、私たちのアイデアをどの事業部が形にしてくれるのか、手探りの面がありました。医薬品や再生医療分野に踏み出す際にも、社内にはメディカルの知見がないので非常にハードルが高いです。さらに、人体にとっての適温を模索する「Comfort」の分野では、私の骨折経験から人体の冷却についてエビデンスを取ってはいましたが、「体のどこにどう使うのだろう」と五里霧中の状態でした。
「なぜ冷たいと痛いのか」「冷却の適温は何度なのか」を探求していくうちに、皮膚表面にあるトリップチャネルと呼ばれる温度センサーが、皮膚温が+17℃以下になると活性化し、脳に警告をするために冷刺激とともに痛みも伝えることが分かりました。そこで、人体発熱を模擬するサーマルマネキンをお借りして+25℃の室温に置き、前腕部に+12℃に設定した冷却材を巻いて計測を行いました(図7)。この結果、皮膚の表面温度を約+20℃で2時間保持することができたのです。
この結果を携えて、東京工科大学理学療法科の菅原仁先生を訪ねたところ「こういう製品を探していた!」と喜んでくださいました。菅原先生は、膝の人工関節置換術後の疼痛を伴う40分程度のリハビリを、マイルドに冷やしながら行う方法を探しておられたのです。そして臨床試験が行われ、成果は2017年の日本健康行動科学会と日本体力医学会で発表されました。
私たちはこの成果を、医療機器の展示会(参考資料4)に2年連続で展示しました。「優しく冷やせる冷却材」「アイシングではなくクーリングができる冷却材」としてアピールしたところ、後日、福島県立医科大の先生や看護師長ともお話しすることができ、医療現場で役に立てるという可能性を感じました。
学会発表をきっかけに労働安全衛生総合研究所の時澤健先生と知り合うことができ、労働者向けの暑熱対策で共同研究を行うことになりました。アメリカでは軍事演習の前に手を+20℃の水に浸ける(手掌浸水)ことで体の深部体温の上昇を抑制し、熱中症対策を行っているそうです。これと同じ効果をTEKION LABの蓄冷材で再現できないかと検証を行ったのです。その結果、+12℃の蓄冷材で手の平と足の裏を30分間冷やすプレクーリングによってほぼ同等の効果を得られました。水道水と氷を使って+20℃の水を用意するのは大変ですが、蓄冷材なら非常に簡便ですよね。また、+12℃より低い温度では血管が収縮して血流量が減り、効果が薄れることも分かりました。
そうなのです。時澤先生は労働者向けの研究を行っていたのですが、やがてスポーツにおける暑熱対策でも注目されるようになり、さまざまな運動指導を行う株式会社ウィンゲートの遠山健太さんを介して広島大学の長谷川博先生につながりました。長谷川先生は、競技のブレイク時に+12℃の蓄冷材で筋肉を直接冷やすことで皮膚温度と筋肉温度を低下させ、競技後半の運動パフォーマンスを維持できるという効果を検証し、学会で発表されました。
そして、長谷川先生が国立スポーツ科学センター(参考資料6)に関わってアイススラリーの開発を行っていたことから、アイススラリーをつくるのに蓄冷材を使えないかということになりました。スラリー(slurry)とは、液体の中にごく小さな固体の粒が混ざった流動性のあるシャーベットのような状態を意味しており、冷えた飲み物をこの状態にすることで体の中から暑熱対策を行えます。選手がプレーの途中にドリンクを飲む光景がよく見られますが、これを-1℃のアイススラリー状態で摂取すると、とても小さな氷の粒が液体に乗って瞬時に胃壁に広がります。これが溶けて液体に変化するときに体内の熱を大量に吸収するのです(図8)。
それまでアイススラリーの製造には専用の装置が使われていましたが、電源が必要なので海外の遠征先などでは必要な時に作れないケースもあったわけです。しかしTEKION LABの蓄冷材を使えば、専用のボックスに選手それぞれがペットボトルに必要なドリンクを入れてベンチへ持参することができます。飲むときには、-11℃の蓄冷材で冷やされて過冷却状態になっているペットボトルを振るだけで瞬時にスラリー化します(図9)。このアイススラリーBOXは2019年のJリーグチームで試していただき、非常に好評でした。選手にはそれぞれスポンサーや管理栄養士がついており、ドリンクにはそれぞれにたんぱく質やアミノ酸など必要な成分が調整されているので、製造装置を個々に使うことはとても大変だったと思います。
スポーツトレーナーとしてさまざまな競技の指導を行うウィンゲートの遠山さんは「革新した」と仰っていました。今は、トレーナーのネットワークを通じてさまざまな競技で効果を試していただいているところです(図10)。そしてもうひとつ、遠山さんが期待しているのは、アマチュアスポーツ界への効果ですね。アマチュアの世界では正しい知識や理論を持つトレーナーが少ないと聞きます。スポーツ少年たちの健康のためにも、啓蒙活動を推進したいと考えておられるようです。
-11℃材でアイススラリーを、+12℃材を手掌冷却に。TEKION LABではこの2つをスポーツ分野での暑熱対策用に展開することになりました。2019年には遠山さんを介してご紹介頂いた企業と(参考資料7)、時澤先生と検証を進めてきた手掌冷却での成果を「暑熱対策グローブ」として商品化することになりました(図11)。
なぜ手の平を冷やすのかとよく聞かれますが、手掌部には太い動脈と静脈がつながる動静脈吻合という特別な血管があるからです(図12)。これは人間の熱交換器官ともいうべき場所であり、特殊な熱放散構造といえます。毛細血管を経ることなく、動脈から直接静脈に入った大量の血液が心臓へ戻ります。ここを一気に冷やすことで、冷えた大量の血液が心臓に戻り、そこから冷却した血液を全身へ送ることができます。
私たちは暑いときについ首筋や脇を冷やしますが、これでは深部体温は下がりにくく、しかも心臓に近いのでスポーツのプレクーリングにおいては負担が大きいそうです。しかし脳に近いので爽快感はすぐに得られるわけですね。だから、精神的なストレスを軽減するという意味では、競技中や終了後には首筋や脇を冷やしても良いのです。ちなみに、競技中に首筋だけを冷やした実験では、深部体温はあまり下がっていないのに脳は気持ち良くなっているという状態でプレーをすることになって、パフォーマンスは良いものの、競技終了後に一気に疲労に襲われる、という状態になることがあったそうです。だからこそ、競技前にあらかじめ深部体温を下げておくことはとても大事なのですね。商品の普及とともに、使用者がこうした知識を正しく理解していくことが大事だと思います。
現在は遠山さんを通じて、さまざまな競技団体でプレクーリングの効果を試してもらっています。競技によっては+12℃以外の温度帯が最適なケースもあるので、ピンポイントで開発を行うこともあるかもしれません。また、手の平だけでなく前腕部でも同等の効果が得られることも分かってきたので、新しい仕様も開発できるかもしれません。私たちは現在、プレクーリングのデータしか持っていないので、さまざまな分野でのヒアリングや検証も行っています。
スポーツ分野に応用できそうな兆しが見え始めたのは2014年頃だったので、「もしかしたら2020年のイベントまでに、何らかの製品化が間に合うかな?」などとメンバーと話をしていましたが、この数年間で急展開し、嬉しい限りです。その途上では自信を無くすこともありましたが、人から人への紹介が続き、その道のプロフェッショナルに次々に出会えたことが本当に幸運だったと思っています。
今後、スポーツ分野でのあらゆるエビデンスを集めていけば、その成果をメディカル分野へも応用できるのではないかと思っています。やはり、人の生活温度帯で使うことを想定して開発した潜熱蓄冷材なので、人々の役に立つものを開発していきたいのです。