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©JAXA
鹿児島県種子島――青く澄みわたる空と、どこまでも広がる碧い海。白砂がきらめく浜辺には、太平洋の波が力強く打ち寄せる。緑豊かな自然は風にそよぎ、陽光にきらめく。美しい色彩と光彩が織りなす南国の楽園である。かつて鉄砲が伝来し、日本の歴史に新たな扉を開いた地。そしていま、この島には種子島宇宙センターがそびえ、宇宙への扉が開かれている。ここから放たれるロケットは閃光とともに大空を駆け上がり、星々の世界へ飛翔していく。大自然と先端技術が響き合うこの島で、宇宙への挑戦が続いている。
種子島は、九州本島最南端の佐多岬から南東に約43kmのところに位置する。南北に細長く、日本の離島の中で10番目に広い面積をもつ。
気候は亜熱帯性で、東京と比べて暖かく、ハイビスカスやガジュマル、ソテツといった南方系の植物が繁茂している。緑豊かな陸地と、青い空と海が織りなす美しさは、一日中見ていても飽きない。夜には満天の星が降り注ぎ、季節によってカノープスや、天の川はもちろん、その中の「石炭袋(コールサック)」もはっきり見える。
この地にそびえる種子島宇宙センターは、それゆえに「世界一美しいロケット発射場」とも呼ばれる。センターの総面積は約970万㎡で、東京ドーム約200個分に相当する。
東京からは飛行機を乗り継いで約4時間、途中で高速船を使っても約6時間で、日帰りもできる。センターに近づくと、木々の合間から突如として巨大な建物やアンテナが現れ、宇宙への期待感を高める。
打ち上げ時には、地元の人々はもちろん、全国各地からファンが集まり、見学場にはのぼりや屋台も並ぶ。そして、眩い光とともにロケットが飛び立ち、轟音が響き渡ると、拍手と歓声が沸き上がる。
種子島宇宙センターの所長を務める、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の砂坂義則さんも、幼いころに、その洗礼を浴びた。種子島出身で、センターの開設とほぼ同時期に生まれた”同級生”にあたる。
「小学生のころに父に連れられ、ロケットの打ち上げを見に行きました。バリバリというものすごい轟音とともに、体が芯まで揺さぶられて、鳥肌が立つ思いをした記憶が残っています」。
この地にロケット発射場(射場)を造ることが決まったのは、いまから約60年前の1966年のことだった。
当時、日本は鹿児島県本土にある東京大学鹿児島宇宙空間観測所(現・JAXA内之浦宇宙空間観測所)から、科学目的のロケットを打ち上げていた。しかし、来たるべき宇宙時代を見据え、より大型のロケットで大きな衛星を打ち上げる必要性が高まり、科学技術庁宇宙開発推進本部が各地を調査し、最終的に種子島の東南端が選ばれた。
選定にあたっては、さまざまな条件が考慮された。たとえば、衛星を打ち上げるロケットは主に東や南へ飛行するため、周辺への安全面から、広大な海が広がり、船舶や航空機の往来が少ない場所が求められた。種子島の東南端は、これらの条件を満たし、理想的な立地だった。
また、主に通信衛星が投入される静止軌道への打ち上げの場合には、赤道に近い場所から打ち上げるほうが有利である。静止軌道は赤道上空に位置するため、軌道傾斜角(赤道面に対する衛星軌道の傾き)を0度にする必要がある。緯度が高い場所から打ち上げると軌道傾斜角が大きくなり、それを修正するために追加のエネルギーが必要となる。したがって、赤道に近いほど軌道傾斜角が小さくなり、軌道面を調整するためのエネルギーを節約できる。
当時は、まだ沖縄が日本に返還されておらず、北緯31度の種子島は、日本領内では最南端に近い立地だった。
さらに、射場に必要な広い土地があること、土地の造成が容易なこと、通信や電力、水源といったインフラが確保できること、ロケットや衛星、人員の輸送がしやすいことなども考慮された。
選定後、まず島の東南端に位置する竹崎地区に、小型ロケット発射場を造り、打ち上げ実験が始まった。その後、1969年10月1日、宇宙開発事業団(NASDA、JAXAの前身のひとつ)の設立とともに、種子島宇宙センターとして開設した。
NASDAはさっそく、米国から技術を導入して大型のロケットの開発を始め、同時に種子島宇宙センターも拡張し、竹崎地区の北側の大崎地区に大崎射場(中型ロケット発射場)を造った。さらに、人工衛星の組み立てや試験、搭載準備のための施設や、打ち上げたロケットを追跡・管制するための施設も建設した。
中型ロケット発射場からはN-I、N-II、H-Iといったロケットを打ち上げ、気象衛星や通信・放送衛星など、私たちの日常生活に欠かせない重要な衛星を送り届けた。
さらに1986年には、21世紀を見据えた純国産の大型ロケット「H-II」の開発が始まった。そのH-IIの発射場として、大崎射点に隣接する場所に、新たに大型ロケット発射場を建設した。H-IIは1994年に初飛行し、2001年からは改良型の「H-IIA」、2009年からは「H-IIB」ロケットの発射場としても使い、そして2023年にデビューした新型ロケット「H3」でも使っている。
センターの建設にあたっては、地域住民の理解と協力も不可欠だった。とくに大崎射場の建設の際には、集落全体の移転を強いることになった。それでも、長年にわたる交流や情報共有を通じて、良好な協力関係が構築されている。
さらに、打ち上げ時には安全のため、漁船の操業ができない海域や時間が生じる。種子島周辺には、九州本島や四国からも漁船が訪れる。かつては漁業を守るため、一年の大半で打ち上げができないこともあったが、双方の協力により、現在では年間を通して一年の大半で打ち上げができるようになった。
ロケットは、技術や運用に直接関わる人だけでなく、地域の人々、ひいては日本国民の理解と協力があって、初めて打ち上げることができるのである。
ロケットの打ち上げでは、どうしてもロケットそのものに目が向きがちである。しかし、発射場という巣があってこそ、ロケットは安全かつ確実に宇宙へ羽ばたいていくことができる。
種子島宇宙センターから打ち上げられるロケットの部品は、主に愛知県や群馬県、兵庫県にある民間企業の工場で製造され、船で種子島の西南端にある島間港(しままこう)に運ばれる。そこからトレーラーに積み替えられ、一般道を経てセンターへ輸送される。
ロケットの本体であるコア機体は、直径4m、全長50mを超え、そのトレーラーも専用品で、道路をほぼ占有するほど大きい。そのため、交通のさまたげにならないよう輸送は夜間に行われる。
さらに、ロケットが通る道路は、あらかじめ電線などが高く設置されていたり、信号機が折りたたみ式になっていたりと工夫が施されている。
ロケットの機体は、その後、大型ロケット組立棟(VAB)と呼ばれる巨大な建物に搬入される。VABは高さ81mと、ちょっとしたタワーマンションくらいあり、この中でロケットを立て、組み立てられる。
一方、衛星も、種子島の港からトラックやトレーラーで運ばれ、センター内の衛星系設備で組み立てや試験、検査などが行われたのち、VABへ運ばれ、ロケットの上に搭載される。
VABの中はいくつかの階層に分かれており、安全帯(ハーネス)や防護ネットを使った高所作業が行われる。開口部も多く、手すりやネットが設置されているものの、誤って転落しないよう細心の注意を払う。
また、H-IIAやH3には、固体ロケットブースターという、巨大な火薬の塊のような補助ロケットがある。火薬類取締法の厳しい制約を受けるため、厳重な保管、管理が求められる。火薬の近くでは火花を伴う作業ができないため、作業の日程や手順を組むのも気を遣うという。
完成したロケットは、点検・整備を行ったのち、打ち上げのおおよそ半日前に、発射場所である射点へ移動する。H-IIAやH3は、発射台が移動式になっており、移動発射台運搬台車(ドーリー)と呼ばれる専用の運搬台車を使って、移動発射台ごとロケットを運ぶ。VABから射点までの500mの距離を、約30分かけて慎重に移動する。
射点から約3km離れた竹崎地区には、ロケット打ち上げ作業を指揮する「竹崎総合指令棟(RCC)」がある。打ち上げに関するすべての情報は、ここに集められ、整備作業や地上安全、発射、追尾などあらゆる決定が行われる。
また、射点から500m離れたところの地下には、「大型ロケット発射管制棟」という施設がある。コンクリートで覆われた、要塞のような頑丈な施設で、「ブロックハウス」とも呼ばれる。ここではH-IIAの整備作業の進行管理を行うとともに、ロケットへの推進薬(燃料)の充填、機器の点検などの遠隔操作、発射指令を行う。
打ち上げ時には、作業員はこの中に缶詰めとなり、非常時以外は外に出られない。当然、打ち上げを肉眼で見ることもできず、定年退職後に初めてロケットの打ち上げを見た、と語る人も多い。
なお、H3の開発にともない、ブロックハウスの代わりに、新たに「竹崎発射管制棟(LCC)」が新設された。RCCの隣にあり、作業員の負担を軽減するとともに、効率化や省力化が図られている。
また、ロケットの打ち上げには多くの電気を使うこと、そして万が一問題があったときでも確実に対処できるよう、センター内には発電機や蓄電池が備わっている。さらに、自前の消防車も備えており、非常事態に備えている。
長年にわたり種子島宇宙センターの運用に従事してきた、株式会社コスモテックの岩坪順さん(取締役 南日本事業部長)は次のように語る。
「ロケットの打ち上げって、一瞬にしていなくなるんですね。それまで苦労し、愛情を込めて造ったロケットが姿を消すと、なんとも悲しく、泣きたくなるような気持ちになります」。
「それでも、ロケットが搭載した人工衛星を無事に軌道に投入し、打ち上げが成功すれば、ようやく安堵感を得られます」。
ロケットが発射台から飛び立ったあとも、RCCでは飛行の状態を常に監視し、安全な飛行の確保や打ち上げの成否確認などを行う。
種子島や、グアム島(米国)、クリスマス島(キリバス)など、ロケットが飛行する経路の下にあたる場所には、電波でロケットを追尾し、ロケットとの間の信号を送受信する「追尾局」がある。RCCではこれらを通じてロケットを見守る。
そして、ロケットが無事、軌道に到達し、打ち上げに成功したあとも、発射台をVABに戻す作業をはじめ、次の打ち上げに向けた点検やメンテナンスが行われ、作業が絶えることはない。
とくに、施設設備の一部は完成から約40年が経過するなど、老朽化が進んでいる。海に面しているため塩害や強風の影響も受けやすく、故障の予兆を見逃さないよう注意が払われるとともに、更新時には錆びにくい素材や塗装を採用し、配管を地下に埋めるなどの工夫が施されている。
岩坪さんは、その仕事の醍醐味について次のように語る。
「コスモテックは、センター全体のインフラや機械設備、電気設備のメンテナンスを担当しています。私たちの仕事により、ロケットや衛星のメーカーさんの作業が円滑に進み、打ち上げ成功に貢献できることに、大きなやりがいを感じます」。
種子島宇宙センターには、JAXAの職員と、ロケットや衛星のメーカー、コスモテックのような関連企業の職員あわせて、平時には約300人、打ち上げ時には約500人が勤務する。
その一人ひとりの力を集めることで、ロケットという強大なエネルギーをもった乗り物を、安全かつ確実打ち上げることができるのである。
長年にわたり、多くのエンジニアとともに、数多くのロケットを宇宙へ見送ってきた種子島宇宙センターは、現在も新たな挑戦とともに発展を続けている。
世界的な宇宙ビジネスの活発化に伴い、米国では週に1機の高頻度でロケットを打ち上げる企業も現れている。こうした中、日本も競争力の維持・強化のため、種子島宇宙センターからH3を年間7機の頻度で打ち上げることを目指している。これは、従来のH-IIAの年間4機に比べて約2倍にあたる。
実現には、ロケットの保管・組み立て・打ち上げに関わる施設や衛星の整備施設を増強する必要があり、現在検討が進められている。
さらに、より将来を見据えて、月に1機から2機以上という、さらに高頻度の打ち上げを実現するための調査研究も進めているという。いまより打ち上げがより身近になり、観光に行きやすくなるとともに、種子島はもちろん、日本の宇宙産業全体が大きく盛り上がっていく可能性がある。
種子島宇宙センターの未来について、砂坂さんは次のように語る。
「打ち上げ時には、ロケットや人工衛星のエンジニアなどが一堂に会し、打ち上げに立ち会うとともに、交流や人脈を築く貴重な場ともなります。また、打ち上げの経験を積むことで、その後の人生に大いに役立ちます。高頻度なロケット打ち上げを実現すると同時に、永続的に若手育成の場としても機能する、そんな射場になってほしいと思っています」。
美しい大自然に抱かれながら、種子島宇宙センターは半世紀以上にわたり、幾多の挑戦と成功を支えてきた。時の流れとともに技術は洗練され、設備もまた磨かれ続けている。その歩みは、この島に流れる風や潮のように決して途切れることはない。
島の風景に溶け込むその営みには、たしかな意志と、揺るぎない熱が宿っている。その情熱が、これからも新たな夢と技術を育み、若きエンジニアたちを未来へと羽ばたかせていくのである。
鳥嶋 真也(とりしま しんや)
宇宙開発評論家。宇宙作家クラブ会員。
国内外の宇宙開発に関する取材、ニュース記事や論考の執筆などを行っている。新聞やテレビ、ラジオでの解説も多数。主な著書に『イーロン・マスク』(共著、洋泉社)があるほか、論文誌などでも記事を執筆。