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Science Report
サイエンス リポート

H-IIAロケット最終号機 ─ 苦難を乗り越えて日本の宇宙を支えた軌跡と未来へ託すバトン

文/鳥嶋 真也
2025.08.06
H-IIAロケット最終号機 ─ 苦難を乗り越えて日本の宇宙を支えた軌跡と未来へ託すバトン

©鳥嶋 真也

鹿児島県の南に浮かぶ種子島。その南端近く、「宇宙ヶ丘公園」と呼ばれる小高い丘の上に、一基の記念石碑がある。そこには、こんな碑銘が刻まれている。

私たちは日本の各地でロケットを構成する部品を研究し開発してきましたその結果を持ち寄りこの地で最終試験を行い打上げに成功し、我が国の宇宙の利用や探査に資することができるようになりましたその間、燃焼試験中のエンジンや打上げロケットの事故に遭遇し、そのたびに改良し過酷な試験を行い、乗越えて来ました(後略)

この石碑は、丘の向こうに立つ種子島宇宙センターを見守るように立っている。2025年6月29日の未明、そこから1機のロケットが飛び立った。それは、日本の宇宙開発を長きにわたり牽引してきた、H-IIAロケットの最終号機である50号機。2001年の初飛行以来、H-IIAは多種多様な人工衛星を宇宙へ送り届けてきた。その開発、運用においては、数々の苦難が襲ったが、たゆまぬ改良と試験を繰り返し、高い信頼性をもつロケットに成長した。その有終の美を飾り、そして未来へバトンをつなぐかのように、H-IIA 50号機は眩い光とともに、宇宙へと力強く駆け上がっていった。

H-IIAロケットの鮮やかなオレンジ色の秘密と最大の強み

打ち上げの約半日前、H-IIA 50号機がロケット組立棟から姿を現し、ゆっくりと射点(発射場所)へ移動した(図1)。

H-IIAの全長は53mで、17階建てのビルに相当する。機体の大部分はオレンジ色が彩る。世界的に見ても珍しいこの色合いは、種子島の緑深い木々と、青々とした太平洋と相まって、鮮やかに浮かび上がる。その佇まいは、どこか南国らしい、陽気で力強い雰囲気をまとっている。このオレンジ色は、実は塗装ではなく、燃料タンクの断熱材そのものの地の色だ。

H-IIAは宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発し、三菱重工が製造、運用を担っている。ロケットは2段式で、下から約3分の2を第1段機体が占め、その両脇には、打ち上げ時のパワーを補助するための固体ロケットブースター「SRB-A」を装備している。

第1段の上には小さな第2段機体が載り、さらにその上に積荷である人工衛星と、そのカバーであるフェアリングという部品が載っている。

組立棟から姿を現したH-IIAロケット50号機
[図1]組立棟から姿を現したH-IIAロケット50号機
写真:鳥嶋真也

今回の50号機には、JAXAの地球観測衛星「いぶきGW」(GOSAT-GW)が搭載されていた。「いぶきGW」は、地球の水と温室効果ガスを観測し、気候変動を把握して、社会生活への影響予測と対策に役立てることを目的とする。まるで地球の呼吸を捉えるかのように、気候変動の最前線で人類に知見をもたらす使命を帯びている。

H-IIAは2001年の初飛行以来、その24年の歴史の中で、こうした重要な衛星を数多く打ち上げてきた。私たちの生活を支える気象衛星「ひまわり」や準天頂衛星「みちびき」、地表や環境の変化を捉える「いぶきGW」のような地球観測衛星、小惑星探査機「はやぶさ2」のような宇宙の謎に挑む衛星や探査機、さらに海外の宇宙機関や民間企業の衛星も宇宙へ送り届けた。

H-IIAの最大の強みは、抜群の信頼性にある。これまでに打ち上げられた50機のうち、失敗はわずか1機で、成功率は98%に達し、世界のロケットの中でもトップクラスに位置している。

また、「オンタイム打ち上げ率」の高さも、そうした信頼性を裏付ける要素のひとつだ。これは天候不良による延期を除き、予定どおりの日時に打ち上げられた割合のことで、言いかえれば技術的なトラブルによる遅れの少なさを示している。H-IIAはこの指標で、世界最高レベルとなる約85%を記録している。

こうした高い信頼性を背景に、H-IIAはさまざまな衛星を打ち上げ、日本の宇宙開発を支えるとともに、日本の技術力の高さを世界に示してきた(図2)。

飛行するH-IIAロケット47号機(2023年9月7日)
[図2]飛行するH-IIAロケット47号機(2023年9月7日)
写真:鳥嶋真也

H-IIAは崖っぷちからのスタート

H-IIAが、これほど優れたロケットになるまでには険しい道のりがあった。そもそも、H-IIAは“崖っぷちからのスタート”だった。

H-IIAは、その先代である「H-II」ロケットの改良型として誕生した。日本の大型ロケットは長年にわたり、米国から導入した技術に依存していたが、H-IIは日本のエンジニアたちが独自の技術で一から設計・製造した初の純国産ロケットだった。

1994年2月4日、H-IIの初飛行は成功し、日本の宇宙開発に新たな可能性をもたらした。その高い性能は国内外で注目を集め、とくに高性能なメインエンジン「LE-7」を造り上げた技術力は、世界から高く評価された。

しかし、H-IIは1機あたり約190億円とコストが非常に高く、国際市場における競争力に課題を抱えていた。さらに、設計が複雑であったことから、製造や運用の負担が大きく、打ち上げ準備にも多くの時間と人員を要した。

これらの課題を克服するため、1996年にH-IIAの開発が始まった。信頼性を維持しながら、構造を簡素化し、コストと運用性を改善することが目的だった。

ところが開発の最中、1998年にH-II 5号機が打ち上げに失敗し、さらに翌1999年には8号機も失敗に終わる*1。日本の主力ロケットの打ち上げが相次いで失敗したことで、国家の宇宙開発計画そのものが揺らぎかねない深刻な局面を迎えた。

エンジニアたちは原因究明のために寝る間を惜しんで対応にあたり、その知見を開発中のH-IIAに反映させていった。

たとえば、8号機では第1段メインエンジン「LE-7」に異常が発生し、これが打ち上げ失敗の原因となった。H-IIAに搭載される「LE-7A」は、もともと低コスト化と信頼性向上を目的に改良され、LE-7とは異なるエンジンになっていたが、この失敗を受けてさらに設計が見直され、試験もいっそう徹底されることとなった。

JAXAのOBで、当時LE-7Aの開発を担当していた坂爪 則夫(さかづめ のりお)氏は(図3)、「ばらつきに対する考えが甘かったんですね」と振り返る。

ロケットには多数の部品が使われているが、それらが設計、製造される際には一定のばらつきが生まれる。あからじめ定めた基準内でも、少し良い品質の部品や少し悪い品質の部品があり、玉石混交の状態にあるのだ。もちろん、ある程度のばらつきがあっても問題なく動くように設計されてはいるが、その見通しが甘かったり、想定から外れた部品があったりすれば、打ち上げ失敗を招くこともある。また、ロケットが飛行する環境や条件も毎回異なり、そこでもばらつきが生まれる。

そこで、性能のばらつきの少ない設計に見直し、製造法もばらつきの少ない製造法に改良するとともに、実際の打ち上げ時以上の厳しい条件をとことん課して燃焼試験を繰り返し、多くの技術データを蓄積した。その過程ではさまざまな不具合があったものの、むしろそれによって膿を出し切ることで、LE-7Aは完成した。

そして2001年8月29日、H-IIA試験機1号機の打ち上げに成功し、日本のロケットの新時代が産声を上げたのである(図4)。

その後もLE-7Aの改良は続き、結果的に50機の打ち上げで一度も問題を起こすことはなかった。

JAXA OBで、当時LE-7Aの開発を担当していた坂爪 則夫氏
[図3]JAXA OBで、当時LE-7Aの開発を担当していた坂爪 則夫氏
写真:鳥嶋真也
2001年に打ち上げられたH-IIAロケット試験機1号機
[図4]2001年に打ち上げられたH-IIAロケット試験機1号機
©JAXA

6号機の打ち上げ失敗の教訓

その後、H-IIAは順調に打ち上げを重ねていたが、2003年11月29日、6号機の打ち上げで失敗を喫した。

ロケットの両脇に装着している2本のSRB-Aのうち1本が、正常に分離できず、このままでは飛行できないと判断され、地上からの指令で破壊されたのである。

H-IIAのすべての打ち上げに関わった、JAXA宇宙輸送技術部門 技術統括の藤田 猛(ふじた たけし)氏は(図5)、この当時、射点近くの地下に設けられた発射管制室で打ち上げ作業に従事していた。

藤田氏は、このときのことを、「忘れたくても忘れられない、50機の打ち上げの中でいちばん私の心に残っている出来事です」と振り返る。

「ロケットから送られてくるデータをモニターしながら見守っていたのですが、打ち上げからしばらくして、責任者がいる総合指令棟(RCC)から『本来分離されているはずのSRB-Aが外れていないが、一体どうなっているのか』と電話がかかってきました。何が起こったのか、その瞬間はよくわかりませんでした。そうこうしているうちに『指令破壊しました』と一報が入って、一瞬で頭が真っ白になりました」(藤田氏)。

JAXA宇宙輸送技術部門 技術統括の藤田 猛氏
[図5]JAXA宇宙輸送技術部門 技術統括の藤田 猛氏
写真:鳥嶋真也

原因究明の結果、SRB-Aのノズルという部品に穴が空き、そこから燃焼ガスが噴き出して、分離に使う部品を壊してしまったことが、分離失敗の根本原因と結論づけられた。これを受け、SRB-Aの改良が行われた。

さらに、エンジニアたちは、SRB-Aだけでなく、ロケット全体の設計をあらためて見直す「総点検」を実施した。そして、数多くの改善点を見出して、そのすべてに手を打った。

H-IIAの製造には数多くの企業が関わっており、いわゆるライバル同士にあたる企業もある。それでも、H-IIAの信頼性を高め、そして二度と失敗を繰り返さないために、企業の垣根を越えて、一致団結して改善に取り組んだ。

培われた信頼性と品質管理の徹底

6号機の失敗から約1年後、2005年2月26日に7号機の打ち上げに成功し、H-IIAは再起を果たした。

そして、改良や総点検の成果によって、7号機以降は大きな問題を起こすことなく、順調に打ち上げ成功を重ねた。

藤田氏は「さまざまな改善が反映されたことが、7号機以降、成功を続けてこられた大きな要因だと思います」と振り返る。

さらに、製造段階から打ち上げの直前まで、全員が「本当に大丈夫か」と確認し合い、些細な異常も見逃さないように気をつける姿勢が定着した。少しでもいつもと異なること、説明がつかないことがあれば、一旦立ち止まり、原因を調べ、対策を打った。ロケットの打ち上げ後も、飛行中にロケットから送られてきたデータをつぶさに分析し、次につなげられる改善点はないかを見つける取り組みを繰り返した。

実は、今回の50号機も、打ち上げ前の点検中に、電気系統に問題が見つかった。一見すると些細な問題ではあったが、エンジニアは「自信がない状態で打ち上げるよりは、確認すべきことがあったら、しっかり確認してから打ち上げるべき」と、ためらわず打ち上げを延期し、原因究明と対策に取り組むことを決めた。

そうした姿勢が受け継がれてきたことで、打ち上げ成功率98%、オンタイム打ち上げ率約85%という記録を打ち立て、高い信頼性を発揮することができたのである。

この高い信頼性は、打ち上げを支える発射場にも支えられてきた(図6)。ロケットという強大なエネルギーを発するものを扱う以上、施設や設備をどれだけ頑丈に造っても、打ち上げのたびにメンテナンスが欠かせない。

さらに、種子島宇宙センターは年がら年中潮風にさらされ、夏には台風が幾度も襲う。ロケットを安全、確実に打ち上げるため、地上設備のエンジニアも不断の努力を続けた。それもまた、高い信頼性の裏打ちとなったのである。

H-IIAロケットが打ち上げられ、今後はH3ロケットの打ち上げに使われる、種子島宇宙センター大型ロケット発射場
[図6]H-IIAロケットが打ち上げられ、今後はH3ロケットの打ち上げに使われる、種子島宇宙センター大型ロケット発射場
写真:鳥嶋真也

2025年6月29日1時33分03秒

H-IIA 50号機が射点に姿を現した6月28日、種子島宇宙センターには、その打ち上げを見届けようと、多くの関係者や見学者が集まっていた。

射点に到着した直後のロケットには、まだ推進薬(燃料)は入っていない。そのため、誰でも比較的近くからロケットを見ることができる。宇宙センターの展望台や、ロケットが見える海岸の波打ち際など、多くの人が思い思いの場所で、最後の雄姿を目に焼き付けていた(図7)。

機体移動が土曜日、打ち上げが日曜日だったこともあってか、子どもたちの姿も多かった。親に質問攻めをする子どもや、記念撮影に興じる学生のグループたちを、ロケットは優しく見守っていた。

やがて夕暮れを迎え、ロケットへの推進薬の注入が始まると、状況が一変する。推進薬とはエネルギーの源だ。それも、巨大なロケットを宇宙に送り届けるためのエネルギーとなれば強大である。そのため、万が一の事故に備え、半径3km以内は立ち入り禁止となり、周囲は物々しい雰囲気と緊張に包まれる。

射点に立つH-IIAロケット50号機
[図7]射点に立つH-IIAロケット50号機
写真:鳥嶋真也

日が沈み、投光器がオレンジ色の機体を照らす。東の空に淡く天の川が流れ、夏の大三角が輝く(図8)。

夜空に輝く夏の大三角と、打ち上げを待つH-IIAロケット50号機
[図8]夜空に輝く夏の大三角と、打ち上げを待つH-IIAロケット50号機
写真:鳥嶋真也

筆者がいた3km圏外の報道席には、波の音と虫の声だけが響いていた。しかし、カメラの超望遠レンズを通して見ると、ロケットがシューシューと白い息を吐いている様子が見える。蒸発した推進薬の一部を排出しているだけだが、まるで神経を研ぎ澄ませたまま眠る竜のようにも見える。

カウントダウンが始まった。自動音声が一秒一秒を刻むが、息を呑んで見守るうちに、時間は一気に流れていくようだった。いつの間にか日付が変わり、打ち上げ1時間前、30分前……時間が加速するように流れていく。

打ち上げの約5秒前、メインエンジンが着火し、ロケットの下がにわかに光る。そして1時33分03秒、カウント・ゼロでSRB-Aに点火すると、ひときわ眩い閃光が奔り、ロケットが真っ白に包まれるやいなや、まるで突如として日の出を迎えたかのように、周囲も明るく照らされる。

その光をたなびかせ、ロケットはゆっくりと発射台を離れる。やがて、地響きと空気を切り裂くような轟音が遅れて届き、その間にもロケットはぐんぐんと加速して上昇していく(図9)。

徐々に機体を傾け、夏の大三角の中に飛び込むように、円弧を描き飛んでいく(図10)。6号機で辛酸をなめたSRB-Aは無事に役目を終え、正常に分離した。H-IIの失敗を経て強くなったLE-7Aエンジンが、ロケットをさらに宇宙へ押し上げていく。

その光も徐々に見えなくなり、ふたたび天の川と夏の大三角が夜空の主役となった。ロケットの姿が見えなくなっても、しばらくの間、エンジンの音は雷鳴のように夜空にとどろいていた。

そして打ち上げから16分7秒後、「いぶきGW」を正常に分離して軌道に投入し、打ち上げは成功した。

普段はカメラのシャッター音しか響かない報道席も、この日ばかりは拍手が湧き起こった。

発射台を離れたH-IIAロケット50号機
[図9]発射台を離れたH-IIAロケット50号機
写真:鳥嶋真也
地球の丸みに沿って、彼方へ消えていったH-IIAロケット50号機
[図10]地球の丸みに沿って、彼方へ消えていったH-IIAロケット50号機
写真:鳥嶋真也

新たなる世代H3ロケットへ

夜空に描いた眩い光跡を最後に、H-IIAはその役目を終えた。しかし、その光は未来へとつながっている。後継機となるH3ロケットが、すでに宇宙への新たな扉を開きつつある(図11)。

H3は、H-IIAの後継機として、より高い柔軟性と信頼性を備え、同時に低コスト化を追求して開発された。

最大の特徴は、多様なミッションに応じて構成を変えられる点で、衛星のサイズや質量、投入する軌道に応じて、エンジンやブースターの数、フェアリングの大きさを組み替えることができ、さまざまな衛星の打ち上げに、H-IIAよりも柔軟かつ効率的に応えることができる。また、打ち上げ頻度の向上も図り、衛星を打ち上げたいときに打ち上げられるようにすることで、官民問わず幅広い需要に応えることを目指している。

打ち上げコストは、H-IIAに比べておよそ半分程度を目指しており、国際市場における競争力の強化を図っている。

技術面でも、H-IIAで培った技術や実績を継承している。新開発の第1段メインエンジン「LE-9」は、H-IIAの第2段エンジンの技術を基に、高い性能と簡素な構造を両立する設計とし、信頼性のさらなる向上を図っている。固体ロケットブースターも、たゆまぬ研究と改良の末、国産化や信頼性向上、低コスト化を実現した。

H3は2014年から開発が始まり、2023年に試験機1号機を打ち上げた。しかし、第2段エンジンに着火することができず、失敗に終わった。H-IIAの技術を受け継いだロケットであっても、予想外の箇所に見落としが潜んでいるというロケット開発の難しさを、あらためてエンジニアたちに突きつけた。

徹底した原因究明と対策を経て、約1年後の2024年2月17日、試験機2号機で初の成功を収めた。2025年6月時点で、5号機まで成功している。まだLE-9などは開発途中だが、そう遠くない将来に本格的な運用段階に入ることが予定されている。さらに、打ち上げ能力や頻度の向上を目指して、ブロックアップグレードと呼ばれる改良計画の検討も始まっている。

H3は、まさにH-IIAが築いてきた技術と実績のうえに成り立っている。挑戦と失敗、改良と成功を積み重ねたH-IIAの経験は、確かな遺産として受け継がれているそして、日本の新たな主力ロケットとして、次世代の宇宙輸送を担っていくことだろう。

H-IIAの後継機となる新型ロケット「H3」
[図11]H-IIAの後継機となる新型ロケット「H3」
写真:鳥嶋真也

そして、H-IIAが遺したものは、技術だけではない。機体移動や打ち上げを見つめていた子どもたちのまなざしには、宇宙への憧れと、未来を創る意志が宿っていた。彼ら彼女らが、やがて次世代のエンジニアとなり、H3のさらにその先を担うロケットを生み出し、人類の宇宙開発を新たなフロンティアへと導くだろう。

宇宙ヶ丘公園に立つ記念碑は、冒頭で引用した文章に続くかたちで、次のように刻まれ、結ばれている(図12)。

令和七年六月二十九日、H-IIAロケット最後の五十号機打上げ完了を記念し、これからもロケットの安全な打上げを見守り、さらにこれまでの南種子町の長年のご協力に感謝しこの地の繁栄を願い、この碑を建てることにしました(中略)組織の垣根や時の流れを越えて 不屈のロケットOB有志

発射台を見下ろすこの場所で、この碑はこれから飛び立つ新しいロケットと、それを造り、運用するエンジニアたち、そして未来にそのバトンを受け継ぐであろう子どもたちを、慈しむように見守っている(図13)。

H-IIAロケットの打ち上げミッションの完了を記念して建てられた記念石碑に刻まれた碑文
[図12]H-IIAロケットの打ち上げミッションの完了を記念して建てられた記念石碑に刻まれた碑文
写真:鳥嶋真也
記念石碑を建てた”不屈のロケットOB有志”と、50号機の打ち上げを成功させた現役のエンジニアたち
[図13]記念石碑を建てた”不屈のロケットOB有志”と、50号機の打ち上げを成功させた現役のエンジニアたち
写真:鳥嶋真也

[ 脚注 ]

*1
H-IIロケットの打ち上げは、準備の都合などから、号機の数字と打ち上げ順が入れ替わり、6号機、5号機、8号機の順で打ち上げられた。7号機は8号機の打ち上げ失敗を受け、打ち上げ中止となった。
Writer

鳥嶋 真也(とりしま しんや)

1987年生まれ。宇宙開発、宇宙科学、天文学の分野を中心に取材・執筆活動を行う。宇宙開発の歴史を調べることがライフワーク。著書に『イーロン・マスク』(共著、洋泉社)があるほか、月刊『軍事研究』誌など複数の媒体で記事を執筆している。新聞やテレビ、ラジオでの解説も多数。”軌道”つながりで鉄道も好き。

Webサイト: Pale Blue . Space (https://pale-blue.space/)
note: 探検された天の世界 - Celestial Worlds Explored|note (https://note.com/celestial_worlds)
Bluesky: https://bsky.app/profile/luna-astroneering.bsky.social

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