No.016 特集:宇宙ビジネス百花繚乱
Scientist Interview

宇宙への翼 − 宇宙旅行の実現を目指す日本発の企業「PDエアロスペース」

2017.12.28

緒川 修治
(PDエアロスペース株式会社代表取締役社長)

愛知県碧南市。かつて瓦づくりで栄え、現在は自動車部品の工場が集まるこの街に、宇宙旅行の実現を目指す「PDエアロスペース」という企業がある。 立ち上げたのは、緒川修治氏(47歳)。かつて戦闘機、その後は民間で航空機のパイロットを目指すも夢破れ、次に宇宙飛行士を目指すも三度夢破れ、それならいっそのこと自分で自分が乗る宇宙船を造ってしまおうと考えた末の起業という、異色の経歴と不屈の精神をもった人物である。 緒川氏が開発中の宇宙船はどんなものなのか。空や宇宙を追い求めるのはなぜなのか。そして、その気骨や行動力、ポジティヴな考え方はどこから来ているのか。 エンジン開発がひとつの山場を越えた今、その思いの丈を語っていただいた。

(インタビュー・文/鳥嶋真也 写真/黒滝千里(アマナ))

空から宇宙へ、パイロットへの想い

── 緒川さんはもともと飛行機のパイロット志望で、その後、宇宙飛行士を目指されていました。空から宇宙へと目標が変わったのには、どのような心境の変化があったのでしょうか。

子供のころは戦闘機のパイロットになりたくて、中学卒業時には航空学生(自衛隊のパイロットになるための学校)を受け、大学へ進学する際は防衛大学を受けました。でもすべて落ちてしまい、まず戦闘機のパイロットになれる道がなくなりました。

その後、普通の大学に入り、機械の勉強をしたのですが、卒業後に就職するにあたって、やはり飛行機のパイロットになる夢を捨てきれず、今度は航空会社のパイロットになる道を目指しました。でも、ここでも、落ちてしまいました。

実は日本にはもうひとつ、パイロットになる道があります。国立の「航空大学校」です。年齢的に最後のチャンスで、大学卒業後、就職せずにトラックの運転手をやりながら、休みの日は勉強し、最終の3次試験(実地試験)まで進みましたが、でも、また落ちてしまったのです。

── 厳しいですね…。

確かに狭き門ではありますが、受かっている人はいるので、単に自分に実力がなかっただけですね。

航空大学が不合格になって、そこで職業パイロットの道は諦めました。しかし、航空業界には身を置きたかったので、職安に通って、航空機関連の仕事を探しました。ここでも紆余曲折があるのですが、最終的には、エンジニアとして、次期支援戦闘機(XF-2、現在のF-2)の開発に携わることが出来ました。僅か4年間でしたが、ここでの仕事、経験、人のつながりは、本当に素晴らしく、今の自分の根底を形成しています。

航空機開発の最前線に身を置く日々で充実はしていましたが、ある日、科学雑誌『ニュートン』に掲載されていた、日本人宇宙飛行士募集の告知が目に留まりました。応募の年齢制限は40歳。当時、私は26歳でしたので、「まだチャンスがある!」と思いました。そして直ぐに応募して受験したのですが、2度受けて、2度とも落ちました。

当時、職場のメンバーの殆どは、東大などの航空科を卒業し、英語も流ちょうに話す人ばかり。私は機械科の学士を出ただけで、明らかに宇宙飛行士には、私よりも周りの人の方が近い存在だと感じました。そこで、学術的なバックグラウンドを得るために、大学院に行くことを決めました。

父が自宅でジェットエンジンの研究をしていたこと、そして日本の航空産業の今後を考えた時に、エンジン技術、特に極超音速エンジン*1技術は必要不可欠であると考え、「スクラムジェットエンジン*2」を研究テーマに選びました。そして、このエンジンの実験的な研究をしている東北大学 大学院を受験し、合格。会社を辞めて、学生に戻りました。この時、私は28歳でした。

大学院での2年間の研究を終え、次の日本人宇宙飛行士の募集に備えていたところ、2003年2月に、スペースシャトル「コロンビア号*3」の空中分解事故が起こりました。その影響は甚大で、NASAの宇宙開発はもちろん、日本の有人宇宙開発にも大きなブレーキがかかり、宇宙飛行士の募集はストップされました。

宇宙飛行士募集の年齢制限は40歳ですが、多くは30歳くらいで選ばれます。その後、10年の訓練を経て、実際に宇宙へ飛ぶことになるのです。私の場合、大学院を卒業した時点で30歳。それから募集を待つことになります。40歳が上限ではありますが、実質的には35歳がリミットだろうと考えていました。

緒川 修治氏

── その後、有人宇宙旅行ビジネスを立ち上げられたわけですね。

ちょうどそのころ(2004年)、米国で「アンサリXプライズ*4」という、民間企業による宇宙船開発のコンテストが開かれていました。「高度100kmまで、人を乗せて、2週間以内に2回飛行させて、安全に着陸させたら、10億円差し上げます。」という賞金レースです。世界中から約30チームがこれに参加し、2004年、僅か50名足らずの小さな企業が、これに挑戦。賞金を手にしました。

彼らの挑戦を目の当たりにして、「宇宙へ行くのは、もう(選ばれるのを)待っている時代ではなくなった。自分たちで行く時代なんだ」と強く感じました。自宅には小さいながらも実験室があり、航空機や自動車の技術の基礎もある。さらに東北大学時代におぼろげながら思いついた新型エンジンのアイディアを合わせて、活かせれば「自分たちでも、やってやれないことはないのでは?」との考えに至りました。

また、当時、会社では技術部と研究開発部の2つの部署に所属し、平日夜と休日は父の仕事を手伝い、同時に自分でも小さな事業を立ち上げ、4足も5足も、わらじを履いていたので、「1つにすれば楽になるかも」との思いもあり、今の会社を立ち上げました。

よく、「ずっと空や宇宙への夢を持ち続けて、1本、筋が通っていますね」と言われるのですが、自分としては、全くそんな風には思っておらず、全て失敗して、仕方なく次の道を探るというのを繰り返してきた、問題を先送りしてきた結果だと思っています。

[ 脚注 ]

*1
スクラム・ジェット・エンジン: 飛行機が極超音速(後述)で飛行するために使うジェット・エンジンのひとつ。吸気口から大気を取り込み、エンジン内で燃料と燃焼させ、そのガスを噴射して飛ぶという流れは他のジェット・エンジンと同じではあるものの、取り込む大気の速さが超音速〜極超音速と超高速であり、それだけの速さの大気をどう取り込むのか、その大気と燃料をどのように安定して燃焼させるかといった多くの課題があることから、まだ実用化には至っていない。
*2
極超音速: マッハ5(音速の5倍)以上の速度のこと。ロケットや特殊な実験機を除けば、この速度で飛行できる乗り物は実用化されていない。
*3
スペースシャトル「コロンビア」: 計5機建造された、NASAのスペースシャトルのうちの1機。1981年に、スペースシャトルにとって初飛行となったミッションを行い、その後も27回の宇宙飛行をこなした。しかし2003年2月1日、28回目の宇宙飛行を終えて帰還する際に空中分解し、乗っていた7人の宇宙飛行士の命と共に失われた。これを受け、スペースシャトルは2年以上、運用を停止することになり、国際宇宙ステーションの建設などに大きな遅れが出た。また、日本にもその影響が及んだ。
*4
アンサリXプライズ: 1996年に始まった、純民間の企業や団体による宇宙船の開発を目指すコンテスト。 人類にとって大きなブレイクスルーとなる技術の開発を目的とした非営利団体Xプライズ財団が立ち上げた。「人を乗せて高度100kmの宇宙空間に到達すること」、「2週間以内に2回の飛行を行うこと」といった厳しい条件が求められたが、世界各国からいくつものチームが参戦。そして2004年に米国企業スケールド・コンポジッツが、宇宙船「スペースシップワン」で条件をクリアし、賞を獲得した。現在、同社やその関連企業が、本格的な宇宙旅行の実現を目指した宇宙船「スペースシップツー」を開発している。
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