No.010 特集:2020年の通信・インフラ
Cross Talk

アスリートが引退を決意した瞬間。

 

坂村 ── ピーク時の力をずっと保つというのはなかなかできないですよね。もう引退だというときは、自分でわかるんですか。

為末 ── 選手によっていろいろでしょうけどね。僕の場合は、速いと思ったのに遅かったという日があって、それはもう致命的だと感じたんです。要するに、もう感覚が狂い始めていた。

坂村 ── 「ベルトコンベアーの上を走っているみたい」と言っていた感覚のことですね。

為末 ── それまでも「ああ、今日はなんかぬるぬるしているなあ、水の中を走っているみたいだな」って遅い日があって、それは構わないんです。でも、ベルトコンベアーの上だと思っているのに遅いっていう……。

坂村 ── 頭の中では速いと思っていたのに、現実の世界では違ったんですね。

── 為末さんの専門はハードル走ですが、普通の400メートル走とは違うものですか?

為末 ── 基本は一緒ですが、ハードルの一番の違いは「踏み切り」が必ずあるので、そこに合わせる修正が必要なことです。僕の種目(400メートルハードル走)の場合、ハードルとハードルの間隔は35メートルあるんですが「ここで踏み切ると一番スピードのロスがなく跳べる」という場所があるんですね。その場所に足が毎回着くかどうかが一番難しい。僕の歩数は13歩だったので、13分の1ずつ修正するのは大きな問題にならないんですが、最後の2歩で修正しようとするとすごいブレーキになるんです。

それに屋外だと風が吹きますから、ハードルは周辺環境を感じながら競技しなくてはいけません。前から風が吹いたら、歩幅が小さくなってズレるし、後ろから吹くと、当然伸びてしまう。「風がどのくらい吹いているか」「今どのぐらい疲れているか」と計算しながら、歩幅をうまく逆算して合わせられるかが最も大事な能力なんです。

身体から得る情報がもっと評価される時代へ。

 

為末 ── 今はテクノロジーが発展している時代ですが、僕は結局、映像でしかピーク時の自分の技術を残せなかったんですよ。もっと三次元のデータとか、筋肉の動きとか、それこそブレイン・マシン・インターフェースみたいなものを着けて、どう準備電位*1が起きて、体はどう動いたとかみたいな辺りまでの情報が残せていたら、だいぶ違ったんだろうなという気がしています。

坂村 ── 体験した多くのことをデータとして残せれば、走ったときの手の動きなど記録されたものを何かの装置を着けて再現し、「ああ、こうなっていたんだ」とわかりますよね。最後の高揚感まで全部記録されていたら、これは変な映画を見るよりもよっぽど興奮できます。

為末 ── 自分の記憶ともバチッと一致した人にとっては、すごい興奮でしょうね。僕が本当に深いところで仮説として持っているのは、肌からの感触とか、身体から得る情報がもっと評価されるという未来像です。今は学習というと、どうしても頭の中でやるのが中心になっている。もうちょっと肌感覚といったものが重要視される時代になると思うんです。

そういう身体感覚や感性の領域に、テクノロジーを使って外の世界を結び付けたいです。練習でもパワードスーツみたいなものを選手が着て、それが遠い世界とつながるような。例えばジャマイカのコーチが日本の選手にそのスーツを着させて「ボルト*2はこうやって動くんだぞ」って、動きをちょっとだけこっちに実感させることができるかもしれない。遠隔コーチングというのは、今のところ視覚と言語に頼っていて、感触や感覚に訴えかけてくるコーチングはまだないですから。

坂村 ── 遠隔で感覚を教えてもらうようなことは、将来できるでしょうね。きっと、かけっこ教室の子どもたちが体にセンサーを付ける時代がくるんじゃないかな。為末さんが「ここだ」と思った時に、アクチュエータ*3で子どもの足がグッと上がって(笑)。

為末 ── それができたら、全国の子どもたちの足が飛躍的に速くなっちゃいますよ(笑)。

坂村 ── 人間の身体って適用性がすごくあるから、実現するかもしれませんよ。今まで動かなかった筋肉が、そういう訓練で動くようになることはあり得るし。2020年頃にはやれるんじゃないかな。

[ 脚注 ]

*1
準備電位: 米国のベンジャミン・リベット(前編注釈*6参照)によって研究された、身体の動きに先行して起こる脳活動。1980年代の実験では、被験者が動作の決定を意識するより、約3分の1秒前から脳活動の電位が変化することを発見。潜在意識が身体の動きを決定している可能性を示唆した。
*2
ウサイン・ボルト: ジャマイカの陸上競技短距離選手。1986年生まれ。2016年2月末時点で、100m(9秒58)、200m(19秒19)、4×100mリレー(36秒84)の世界記録保持者。
*3
アクチュエータ: 油圧や空気圧、電力や磁力などのエネルギーを、伸縮・屈伸・旋回といった物理的運動に変えることでモノを動かす駆動装置。

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