現代版「ミクロの決死圏」に挑戦
2017.04.28
人体の外から電波を入れることは、家庭のコードレス電話への充電と似ている。コードレス電話は受話器に内蔵された電池を、受話器の台に置くことによって自動的に非接触で充電する。受話器の底と電話台との間には金属の端子はなく絶縁体のプラスチックしかない。しかし、受話器の底と、台の表面にそれぞれコイルを設置していれば、台の表面のコイルから出た電磁波を受話器の底のコイルが捉え、充電するのだ。ワイヤレス充電である。
コードレス電話と同様に、人間の体の中にコイルを持ったデバイスを埋め込み、体外からコイルを使って電波を飛ばし体内のコイルに電波が届けば、コードレス電話のように充電できるはず。そう考えて、体外から電波を飛ばし体内のデバイスを充電あるいはそのまま動作させようという発想が、プーン準教授の基本にある。ところが、通常の電磁波(電波)では、体内に埋め込まれたデバイスまで電波は届かない。表面1~2mmのところで減衰してしまうからだ。
この記事の本文では、どのようにして体内まで電波のエネルギーを届けることができたのか、について、そのサクセスストーリーを描いている。
ペースメーカーのように体内に埋め込むデバイスは、電池が切れたら、再び手術して電池を入れ替えなければならない。しかし、もし体外から電源を供給できれば、その必要はなくなる。加えて、現状のペースメーカーは5×7cmや5×4cmなど手のひらくらいの大きさだ。これが2×3mmの米粒サイズまで小さくなれば、心臓の近くに置くことができるようになる。さらに、カテーテルを通して患部だけを集中治療できるようになる。実際に、米粒サイズの治療器ができる可能性は高まっており、実現すれば脳の神経細胞(以下「ニューロン」)を刺激して、精神障害の治療も可能になるかもしれない。まさに現代版『ミクロの決死圏*1』だ。米粒サイズのカプセルデバイスを開発したスタンフォード大学准教授のエイダ・プーン氏に、その狙いや展望について伺った。
米粒サイズの治療器を目指す
── 体内に埋め込むペースメーカーなどの器具への電源をマイクロ波で供給する研究を進めているそうですが、研究をはじめるきっかけは何だったのでしょうか。
私は大学に戻る以前、産業界にいました。大学に来る直前の研究では、高速データレートによるワイヤレス通信の802.11ad規格というミリ波通信を手掛けていました。民生用としてはミリ波CMOS回路を初めて実用化すべく、IEEE 802.11ad規格のICチップを開発していたのですが、残念ながら商業化できませんでした。これは2004年末のことでしたので、時期尚早だったと思います。こうした経緯があり、その後、民生用エレクトロニクスをそのまま続ける気にはなりませんでした*2。
その当時、私の父がガンに侵されていることが分かったこともあり、民生用エレクトロニクスには見切りを付け、大学に戻ったのです。そこで医療エレクトロニクスを志すようになりました。それも診断用ではなく治療用の医療エレクトロニクスです。
超小型の治療機器を作ることができれば、患部に可能な限り近づけて治療できると思いました。これまでの薬物を使う治療は、化学的な活性を生物的な活性に変換して、身体全体に影響を与える治療です。しかし、微小な治療器に電極を付け、患部に近づけて局所的に治療すれば、身体全体の負担が少なくなるはずだと考えたのです。
こうした超小型の治療器を製作することは、それほど難しくないはずだと思いました。というのは、半導体チップはムーアの法則*3に従って微細化が進み、どんどん小さくなっているからです。むしろ治療デバイスの問題は電源だと思い、ここに注目しました。
私のバックグランドはワイヤレス通信でしたから、無線を使った電源を考えました。ワイヤレス通信では、電波のエネルギーを変調して情報に変換していますが、エネルギーを取り出すことも可能なのです。今まではエネルギーよりもデータに注目していましたが、大学に戻ってからはエネルギーに注目し、人間の体内の電子機器へエネルギーを供給することを研究しはじめました。
── 携帯機器へのワイヤレス給電と同じですね。
ワイヤレス電源の研究(本記事の冒頭参照)は、1960年代から行われていましたが、低周波でしかもニアフィールド*4でした。その初期の実用例が、電子歯ブラシの充電器です。私たちは、受信コイルとして歯ブラシに取り付けましたが、これはいささか大きすぎました。コインバッテリと同じ大きさだったのですから。大きなバッテリとコイルでは、体に入れる電子機器を作ることはできません。私たちの目的は、小型の電子機器を体内に入れ、その電源を体外から供給することでした(図1)。
極小のワイヤレス電源を実用化するために、一体どの程度の情報を無線で送ることができるのか、通信理論を勉強しました。そしてシャノンの通信容量限界*5のことを知ります。上限は通信チャンネルを通るデータ量で決まり、通信では一つの回線で一定のS/N(ノイズに対する信号の割合)比で、1回で送信できるデータ量が限界になります。S/N比×バンド幅(1秒間に送れるビット数)がデータレートの限界なので、この限界を把握していると、その目標に向けて改良を続けることができます。
シャノン限界と同様に電波が体内に入る限界を調べようと思いました。体外のコイルを使ってニアフィールドで誘導結合させて、どのくらいのパワーを体内の小さなデバイスに送ることができるのかを調べるため、データを解析して上限を求めることにしました。これは、シャノンの限界を求める場合と同様の手法ですが、実際には少し複雑でした。
[ 脚注 ]
- *1
- ミクロの決死圏:1966年に公開されたアメリカのSF映画。脳に障害を起した要人を救うべく、ミクロサイズに縮小された科学者グループが人間の体内に入り込む物語。
- *2
- 当時は60GHzで動画をダウンロードしたり、Blu-Rayプレイヤーからモバイルプレイヤーへダウンロードしたりして、通勤電車でゆっくり視聴する、というアプリケーションを想定していた。2001年にiPodが登場したが、音楽主体でビデオも小さな画面だったため、ミリ波は必要なかった。2007年にはiPhoneが登場し、ストリーミング応用が普及したため、この用途は消えた。
- *3
- ムーアの法則:シリコン上に集積されるトランジスタ数は1年に2倍に増えるという経済法則。当時フェアチャイルドセミコンダクターにいたゴードン・ムーア博士が提唱した。トランジスタを微細化することで、集積度の向上を達成。
- *4
- ニアフィールド: 近接電磁界のこと。電磁界すなわち電波を近くだけ飛ばす場合のことを指す。ちなみに「スイカ」や「フェリカ」などのICカードは、NFC(ニアフィールド通信)と呼ばれている。
- *5
- シャノンの通信容量限界: 通信回線(チャンネル)の理論的な限界のこと。