No.003 最先端テクノロジーがもたらす健康の未来 ”メディカル・ヘルスケア”
Scientist Interview

日本の医療・ヘルスケアの未来

──医療やヘルスケアの分野で、現在の日本の社会設計の問題点はどう見ていらっしゃいますか? またその課題の解決のためのアプローチについてはどうお考えでしょうか。

今の社会システムを前提とした場合、当面は、医療費が年々着実に増えていくでしょう。社会システムの再検討も不可欠だとは思いますが、それに加えて健康寿命と平均寿命の差異を少なくしていく事が重要です。健康を害してから亡くなられるまでにかかる医療費を圧縮する最も効果的な方法は、死ぬまで健康で、健康を害しないようにするということです。

最終的には、健康寿命=平均寿命が理想的ですね。坪田教授は健康寿命120歳を目指そうとおっしゃっています。120歳まで健康で、おいしくお酒をのみごはんを食べる。週末医療費が劇的に下がれば、経済の破綻を回避できる可能性は高まります。もちろんこのように健康寿命が延ばせるのであれば、生涯現役社会を見据えた社会システムの再検討は不可欠です。その検討の方向性の一つが農業にあるとも思っています。

健康寿命と平均寿命の差を縮めるためには、日常生活を改善し、健康を害さないように予防を徹底的にやるということが最も重要なのです。ここでも、先ほどから繰り返し申し上げている非侵襲測定に基づく定量化というアプローチが鍵となると思っています。具体的な数値データのフィードバックがあれば、健康に配慮する人は現在よりもずっと増えるでしょう。しかし、我々が測定装置を開発し社会に適用したとして、出来るのはきっかけづくりに過ぎません。そのきっかけを活用し、個々人が自己の判断で取り組む姿勢が一番重要で、それをどのように支援していくのかという点が、最も重要だと認識しています。先ほど申し上げた糖尿病などについては、このような日常からの健康増進という取り組みが高い成果を期待できる分野の一つではないかと考えています。

そうして、健康増進を図る事を踏まえて、その健康な方々が働ける場を具体的につくっていかなければなりません。農業は、70歳を過ぎても日本の平均年収を軽く上回る小規模な経営体が継続できる数少ない産業分野の一つです。今まで申し上げた我々の研究は、このような自分自身で生きていける分野に、より多くの高齢者が参加出来るようにすることを目指したものでもあります。その観点からもソリューション設計をしています。また、農業の副次的な効果として、身体に関する健康増進効果、あるいは園芸療法などに代表されるような精神面での健康増進効果にも着目し、取り組みを進めています。退職後に家でじっとしていれば体も衰えます。精神的にも様々な良くない状態へと陥る可能性が増加していきます。農家一軒あたりの平均収入が2000万円を超えるといわれる長野県の川上村では、多くの高齢者が農作業に参加しています。高齢化比率は高いですが、多くの方々が元気に働いており、行政側が負担する介護保険関連などの諸費用も低水準に抑えられています。こういう状況を踏まえてみると、農業は本当に多様な可能性を持った産業なのだと思います。

また、今後、退職後の新たな働き場として農業に取り組まれる方々のことを考えますと、いまの農業は、1人前になるために必要とされる期間が長すぎます。「水やり10年」という言葉は極端としても、水やりなどを自主的に判断するためにはある一定の長さの経験が必要だといわれます。私がITを使って熟練農家の技術継承の研究に取り組んでいるのは、このような状況を踏まえたものです。熟練農家が保有するノウハウを解析するつもりはありません。ノウハウは状況依存性が高いでしょうから、解析は非常に困難です。それよりも、そのノウハウを継承するためにどのような仕組みが必要であるか。この方向性であれば様々な取り組みが考えられます。そうしてノウハウを継承して頂くための基盤が見えてくれば、それと連動する形で、非常に小規模な農業ユニットを考えても良い。また、マンションや一戸建てのベランダで、熟練農家のノウハウを活用し、安定的に収益性が見込める農業が実現可能になるかもしれない。このような検討を民間企業と共に、議論を進めています。

少し話がずれますが、私が関与するプロジェクトの一つに介護分野の人材育成に関する取り組みがあります。介護分野もまた、退職後の団塊世代の雇用の受け皿となり得る可能性があります。

介護現場で働く方々の状況を調べてみますと、給料が安くて労働条件も厳しい。その結果として慢性的な人手不足になり、いざ就職したとしても離職率が非常に高い。このような課題は多くの方々が指摘されていることですが、それをもう一段掘り下げていくと、働く方々のやる気を引き出せるようになっていないことが離職率が高い原因ではないかという仮説を持つようになってきました。今日、介助作業を行なうとします。食事の介助、テレビをつける、おむつを替える、といった介助行為を予め指示されたマニュアルなどに基づき実施する事はそれほど難しい事ではありません。多くの人が実践しています。ところが、マニュアル通りに介助行為を実施しても、相手は満足してくれないという状況が発生する。介助される相手は人間ですので、その時々によって介助してほしい内容が異なることがある。体調が良いとき、悪いとき、それぞれで同じ介助をしてほしいわけでは無い。それも人によって異なるわけです。このときに、どのように柔軟に対応出来るのか。経験が浅い方では、マニュアル通りの対応しかできず、相手を怒らせるなどのトラブルも発生する。いろいろな調査結果を踏まえますと、この類の、どのように対応したら良いかわからないという状況が多発する介護現場で働く人の離職率が高く、周囲のサポートなどでトラブルが抑えられているところは、離職率が低い事がわかってきました。

そこで、介護現場で働く人の、状況認識の差異に着目しました。マニュアルとは異なる対応をする場合には、何らかの気づきがあるはずです。介護現場で働く複数の方々にPDA端末を持っていただき、何をしたのかではなく、どのようなことに気づいたのかを入力して頂く仕組みを構築しました。もちろん、介助行為をしながら気づいた時点で入力していただくのですから、簡便に入力できる仕組みを構築しています。データを解析してみると、人によって気づく内容が大きく異なることがわかりました。お手本としたい方の気づきと初心者の気づきを比較し、何が異なっているのか、どのようなことに気がつくべきかを具体的に議論可能な環境を構築しました。この環境を活用いただいたところ、初心者の対応が数ヶ月で劇的に改善され、現場でのトラブルが減少するという状況が生じました。離職率の低下という点まで言及する事は現時点では出来ないのですが、少なくとも現場のトラブルは減少している。この取り組みは、介護分野に知見を持つ企業と既に連携済みで、数年後の事業化を目指しています。介護分野の人手不足は深刻ですので、早期に一人前になる仕組みを提供すれば、団塊世代の雇用の受け皿として充分に期待できます。

このような超高齢化社会を見据える一方で、乳幼児から小学校低学年の世代に関する取り組みももっと進めていきたいと考えています。重要な発育時期に、病気の予防に留まらず、将来的な健康増進を見据えた取り組みについて、より詳細な検討が必要ではないでしょうか。ここでも定量化は非常に重要です。子ども自身が納得して物事に取り組むためには、個々の健康増進につながる効果を具体的に見える化してあげる環境の整備が必要です。例えば、「歯」です。歯磨きの効果を歯磨き前後で定量的に示すことが出来ないか。効果を具体的に示すことで、子どもを自発的に歯磨きへと促すようなソリューションを検討しています。歯の健康を維持することは、ヘルスサイエンスの観点からも非常に重要です。乳歯から永久歯へと生え替わる前後の時期に提供することで、これからの世代の健康増進につなげていければと考えています。

この他にも様々なプロジェクトを進めています。現役世代を含め、これから数十年の間、日常生活を無理なく健康に暮らしていくためにはどうすればよいのか、というのが最大のテーマです。それは医療費の抑制にもつながりますし、社会全体の活性化を促すことになると思います。医療費を減らすためには、いま健康な方が健康であり続けること、しかもそれを日常生活の中で取り組めることが、社会全体の活性化を促す事になる。安心して日常生活を送れるからこそ、趣味や消費活動に精力を傾けることが出来る。そのためには自ら納得して健康増進に取り組んで頂かないといけない。そのようなソリューションが必要なのです。

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