生きものを相手にする
サイエンスのブレイクスルーを目指して
ITと健康を統合する「アーキテクト」のビジョン。
2012.12.10
医療とヘルスケアのテクノロジーを現実に展開していくときには、研究・技術面での先進性だけでは足りない。そこには国の制度との関係や民間企業との協同事業などを含めた社会設計的な視点が必要になる。ヘルスケアは、医療のみならず、ITや制度設計、事業開発や製品開発などを含む広い領域にまたがっている。こうした社会の全体的な設計を担う人材のことを、最近では「アーキテクト」と呼ぶ。日本の未来の産業や制度のありかたを含めたアーキテクトの視座から活躍している神成淳司准教授に、ヘルスケアの未来について話を伺った。
ものづくり、農業へのアプローチからヘルスケアへ
──神成先生は、ITとものづくり、ITと農業、という分野でこれまで活躍されてきました。そういった研究が、今年からスタートした慶応義塾大学SFC研究所ヘルスサイエンス・ラボ(以下HSL)における医療やヘルスケアへの展開につながっていった経緯を教えてください。
もともとITを活用したものづくりの高度化に取り組んできました。ここで着目してきたのは、コスト低減ではなく、いかに高付加価値化を可能にするか。そこには、熟練技術者の思いや独自の感性を踏まえ、どのようにモノ創りの工程を捉え直すのかという観点から議論が必要です。一方で、ものづくりは、対象が「もの」であるため、製造過程や環境を均一にすれば加工精度は向上します。20世紀の産業構造を改めて捉え直すと、「もの」を対象とし、メカトロニクス等の発展により、「人」ではなく、ロボットや製造機械により、安定的かつ低コストに様々な製品を製造する技術を確立してきました。その結果、大量生産の範疇においては、ほぼ必要なレベルが達成されたと言えます。私が取り組んでいたのは、このような全体的な流れとは別に、さらなる高付加価値化を目指した「人」に着目した取り組みですが、それは産業的に主流となることは難しい。今後のものづくりの主流は、基本的には低価格化という方向に全体としてはいかざるをえない。これが20世紀のサイエンス、もしくはエンジニアリングのパラダイムだったのだと思います。
一方、農業の場合は、対象が「もの」ではなく「生体」です。生体には個体毎に差異が存在しています。同じ種を蒔いても出てくる葉は一つ一つ違う。外的環境を均一にしても、個体差を打ち消すことは出来ない。ある作業を対象に施しても、その結果として得られる反応が一意ではない。不確定な反応を踏まえ、さらに状態依存性、状況依存性を打ち消すことが難しい状況において、どれだけすぐれた生産物を安定的に出していくのか、というアプローチが必要です。アプローチが目指す目的も市場価格や気候変動等により修正する必要すらでてくる。これはモノづくりとはパラダイムが全く異なっています。20世紀のパラダイムをそのまま適用する事が難しく、単なるコスト低減、価格競争の枠組みとは異なる世界が広がっている。ここに、21世紀のサイエンス、あるいはエンジニアリングの方向性、可能性があるのではないか。そのように考え、農業分野に携わり、熟練農家に着目した研究を進めてきました。
植物の光合成を考えるとき、従来は、「ある特定の波長の光を照射することで、光合成が促進される」という前提に基づき、例えばLEDライトを農地に設置するといった取り組みがされていました。しかし、光合成は化学反応です。化学反応には必要な物質が存在し、むやみに光を与えても光合成が単に促進されるわけでは無い。作物生理を踏まえた議論が必要です。人間が筋肉を鍛えるとき、ひたすらトレーニングを続ければ筋肉疲労が生じます。適度に筋肉を休ませながら継続的にトレーニングをすることが望ましい。作物も同様に、単に光を当てるだけでなく、休ませる時間を考慮する必要がある。ここにサイエンスが融合されると、様々な状況依存性が存在する事を踏まえつつ、最適な光合成の促進はどのように出来るのかという議論となる。非常に興味深いのは、熟練農家は経験に基づき、このようなサイクルを考えています。ちょうど医者が患者を診察するように、熟練農家は作物の状態を診察し、それに基づき必要とされる農作業を施している。これは医学のアプローチと通じるものがあります。いつも同じと想定される成分や分量を与え続けるというのではなく、対象の状態、周囲の環境などを踏まえ、適切な成分や分量を与える、というアプローチです。
また、作物の状態を把握するための新たな手法にも取り組んでいます。従来は、作物をすりつぶすなどの処置が必要な破壊型検査が主流を占めていました。熟練農家は、作物を観察し、状態を予測しています。同じ事が出来れば、熟練農家のように誰もが作物の状態を把握することが出来ます。そこで、非破壊、非侵襲*1で内部状態を把握する事ができないかと考え、理化学研究所と共同で研究を進め、実現に目処が立ってきました。この、取り組みが、医療・ヘルスケアと連携する一つのきっかけとなりました。「非侵襲」計測技術は、これからのヘルスケアを考える上で最も重要なテーマです。農業のために研究を進めている非侵襲計測技術の精度を上げれば、医療・ヘルスケア領域で求められる人体測定にも応用することができます。
たとえば血糖値の測定です。糖尿病治療の現場では、採血をして血糖値を測定しています。採血は皮膚に傷をつけますので、1日に測定出来る回数には限界があります。しかし、非侵襲測定であれば、極端に言えば、24時間の血糖値の変化を測定することが可能となる。人それぞれで、食材を摂取した際の体の反応は異なります。この体の変化を把握出来るようになれば、糖尿病の診断に大きな変化をもたらすことが出来るでしょう。作物に対して同じようなアプローチをすれば、施肥をしたり、水をまいたり、それぞれの農作業ごとにどのように糖度が変化したかを把握出来る。一番甘いときに作物を収穫するといったことも可能になります。我々の社会を大きく変革させる事が期待されます。
次に、「これからの農業における付加価値とは何か」という観点から考えます。これも、医療・ヘルスケアと関連したテーマです。作物にどのような付加価値が存在するのか。付加価値は価格弾力性を考える上で核となる要素です。多くの果物における代表的な付加価値は、糖度、"甘さ"です。もちろん見た目も重要ですが、客観的な数値として捉えられるのは糖度でした。高糖度の果実は高く販売され、農家に利益をもたらします。ただ、糖度が付加価値となるのは、主に果実です。それ以外の作物に関してはどのような付加価値が考えられるのか。もちろん、生産性を上げる、あるいは病害虫に強いというのも重要な付加価値です。前者は売上高を向上させるという付加価値が期待されますし、後者は安定的な収益を達成する上で重要な付加価値となります。私が着目し取り組みを進めている付加価値は、「作物の機能性成分」です。人間の健康に資する機能性成分を高含有する事が付加価値となるのではないか、ということです。
たとえば、加齢に伴う失明リスクを減少させる栄養素を高含有するほうれん草。人間の眼の奥、眼底には、ルテインという黄色い色素が含有しています。この含有量の減少が、加齢黄斑変性症という疾患を引き起こすといわれています。加齢黄斑変性症は、米国の失明原因の一位、日本でもベスト5に入っています。ルテインは太陽光から受ける目のダメージを和らげる働きをしています。体内では作り出すことが出来ないため、何らかの方法で体外から摂取する必要があります。この栄養素を通常のものより数倍含有するほうれん草は、従来のものよりも価値を持つのではないでしょうか。ただし、このソリューションを実現させるためには、ほうれん草を食べることの具体的な効果を検証すると共に、個々の消費者自身が、ほうれん草を取る必要性を自覚していただく事が望ましいでしょう。
残念なことに、従来、眼底のルテイン量の計測は非常に難しく、眼底写真に基づき判断するという事が多くなされてきました。これでは、摂取量に伴う効果を定量的に示す事は難しい。そこで、慶應医学部、理化学研究所と連携し、世界ではじめて、眼底のルテイン量の計測装置を開発しました。もちろん、この計測装置を用いることで、加齢黄斑変性症の治療や予防が大きく変わり、多くの方が失明を免れることに期待しておりますが、それに加えて、今後、この計測装置を用いて、ルテインの経口摂取効果の分析を進めて行く予定です。効果があることが客観的に評価できれば、ルテイン10倍含有ほうれん草の価値は認められるのではないでしょうか。さらに、調理を通じてルテイン量がどのように変化するのか。個々の栄養素に最適な調理法を科学的見地から再検討していきたいですね。また、体内の代謝メカニズムに関する基礎研究にも取り組んでいきたいと思います。地方の在来食材の栄養分析をして、特徴のある成分を把握した上で、レシピ開発をする、という取り組みも進めています。非常に多くの可能性が存在するのです。