人間の身体性は変換され続ける
落合 ── 最近の論文の中で「トランスフォームされたヒューマンプレゼンスがあり得る」ということを書いています。なぜなら、人間の未来は現状の身体の形を絶対にしていないだろうと思うから。
例えば今、ゲームの中で、人はキャラクターになっているわけだし、Facebookで顔写真はピクセルになっている。我々の身体性というものは、特殊な形に毎回変換されていると言えるでしょう。
そのとき他の生き物の形になってもいいし、もっとチャーミングな形になって他の場所に行ってもいいし、空間性と身体性の形を超えていく時代、どこまでが操作できて、どこまでが操作できないのかという研究があり得るなと思っています。
ロボットだったら各関節を簡単なアクチュエーター*4で作ったら、どこまで関節の本数を減らせるのかとか、表情は何をもって認識されているのか、みたいなことを研究していますね。
要は「タンパク質でできたコンピュータ」である人間の身体を、どうコンピュータで物質化するか。もしくは第2の身体を物質化したり、第3の身体として物質化したものを他人に渡すとき、どんな表現にするかという研究をしています。
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言葉とは曖昧性と多義性の塊だ
武田 ── フォーサイスの振り付けに私が興味を抱いたのは、インターネットが登場し、身体性がどんどん消失されていく中で、自分の身体の存在をどうやって楽しめるのかという動機からでした。
人間の認識や言葉って、結構、粘土のように変化しやすいものだという感覚が私にはあります。言語処理をやっていて思いますが、言葉は曖昧性と多義性の塊なんですね。
機械学習の場合、同じような言葉でも、どういうコンテクストで分析するのかによって、意味が大きく変わってくる。
人間は、その時々の文脈でアドリブを加えながら、意味が合っていればそれを受容する。すごく柔軟な存在です。わたしたちは、自分自身の捉え方で、いかようにも楽しめるという、独特の感覚がありますね。
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[ 脚注 ]
- *4
- アクチュエーター: エネルギーを運動へと変換する駆動装置