活動の原点になったのは、
コンピュータへの憧れと希望。
──お二人の今はどのようにしてあるのでしょうか。かたや研究者、かたやその道を選ばなかったアーティスト、それぞれの立場の由来をお聞かせください。
暦本 ── 私はそもそもコンピュータに強い憧れを持っていたんです。小学生の時代にはもちろんパソコンなどはなくて、まだ「TK80*4」も世に出る前でした。当時、NHKでコンピュータ講座というのがあって家に教科書を送ってくるんですが、一番後ろにはキーボードの実物大の紙が入っているんですね。よく音楽の教科書の一番後ろに鍵盤があるのと同じです。それを叩いていたり、鉛筆でFORTRAN*5のプログラムをノートに書いていたりという小学生でした。高校ぐらいになってマイコンが来た。やっと動くコンピュータを手に入れたのが嬉しくて(笑)、そのまま大学はコンピュータが触れられるところへ進みました。
私たちの年代だと、コンピュータを触りたい人は自動的にそういう進路を選ぶみたいな感じでした。今だとパソコンなどもいっぱいあるので、コンピュータに接することと、進路を選ぶことはそんなに一致してないでしょう。真鍋さんが初めてコンピュータに触れたのはいつでしたか?
真鍋 ── 僕は小5くらいでしたね。小学校のときに「MSX*6」や「PC-8801*7」といったパソコンを買ってもらい、BASIC*8を見よう見まねで書いたのを覚えています。あとは当時ゲームを作るためのソフトが発売されていて、それがきっかけでプログラミングに強く興味を持つようになりました。その後はコンピュータから少し離れましたが、大学で数学科に行ってまた触れるようになりました。ただ、数学の課題の中でやっている勉強だったので、代数や幾何学的な要素が強いものばかりでした。
大学卒業後はメーカーに就職してSEになったのですが、プライベートではよくDJをやっていたんです。その頃に「CDJ*9」が出たんですよ。今までアナログな方法でしかできなかったスクラッチがデジタルでもできるようになったのは画期的でした。アナログレコードにSMPTE*10のような位置情報を含んだ信号を埋め込んで解析したら、コンピュータの中のサウンドファイルやビデオファイルを、今までと同じアナログレコードとターンテーブルというインターフェースでスクラッチできるなと思ってIAMAS*11で開発していました。でも、入学1年目で「Ms. Pinky」という同じコンセプトのツールがプロダクトとして普通に販売されてしまった。アイデアは良かったけど、誰でも考えるようなことだったんだなと思います。
ただ、IAMASに入るくらいの頃からプログラミングとメディアを結び付けるような活動を始めて、そこから試行錯誤しながら作品を作っていたら、だんだん広告などの分野でそうしたテクノロジーを使ってやりたいという依頼が増えてきたので、それがいつの間にか仕事になっているという感じです。
──影響を受けた存在はいますか?
暦本 ── やっぱり、アラン・ケイ*12でしょうか。高校生のときにアラン・ケイのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を使ったAlto*13の研究を見て「わっ、こういうのがやりたい」と衝撃を受けました。当時はまだマウスもなかったので、マウスを触るために富士ゼロックスの海老名工場まで行ってAltoを見せてもらっていましたね。
真鍋 ── 僕はオタクだった祖父かもしれません。「ウォークマン」の最初のモデルを持っていたり、レーザーディスクとMSXでゲームができるような当時としては先進的なものを持っていたりしたんです。あとは両親がミュージシャンで、母親はシンセサイザーの設計というか、ソフトの制作に携わっていました。だから家にあったシンセをよく触っていましたね。それが今にどう影響を与えているのかは分かりませんが。
暦本 ── シンセの中のプログラムを作られていたんですか?
真鍋 ── いえ、中の音色だとか、サンプルのMIDIファイルみたいなデータを用意する仕事なので、ソフトウェアの開発ではないですね。コンテンツソフトの制作という感じです。
僕が、インターフェースの研究が分野としてあることを知ったのは、IAMASに入学してからでした。2002年ぐらいまではそういう研究があることも知らなかったので、だいぶ遅くから興味を持ち始めたんです。