No.019 特集:医療ビッグデータが変える医学の常識

No.019

特集:医療ビッグデータが変える医学の常識

Expert Interviewエキスパートインタビュー

── 先ほど話に出たデータ・ブローカーは好ましくない例でしたが、より良い目的を持つ医療のデータ・ブローカーは存在しないのでしょうか。

アメリカ政府が2015年に発表した「精密医療イニシアティブ」は、研究者にオープンな100万人規模のデータベースを作ることを目的としたものです。また、退役軍人省も100万人の退役軍人のデータベースを構築していますし、民間企業のIBM社などもデータベースを持っています。ただし、データの正確性やバイアスにはここでも留意する必要がありますし、ハッキングの危険性もあります。ここ数年、データを人質にするランサムウェアも出回り始めました。しかも、身代金を取るだけ取って、解読キーを渡さずに逃げる手口も横行しています。データがデジタル化されると、こうしたリスクがついて回るのです。

── 個人のデータは誰に属すのかがよく議論になります。医療機関によっては、患者個人が自分のカルテにアクセスできるようにしているところもありますが、それでもデータを所有していることにはなりません。これについてはどんな考えをお持ちですか。

アメリカの法律では、理論的には医療情報はその人個人が所有していることになっています。しかし、それをデータ化すると、そのデータを作成した主体が所有することになり、個人にはそれをコントロールする力がありません。最高裁が情報プライバシーの権利の存在に言及する機会もあったのですが、結局うやむやになっています。また、HIPPAのプライバシー規制では、患者が自分の医療記録にアクセスする権利は与えられていますが、その複製を作るには課金が必要です。多くの医療機関では、「個人医療記録」と名付けた特定の情報を、患者にアクセス可能にしています。どんな情報を見せるかは各機関の裁量に委ねられていますが、それは必ずしも悪いことではありません。患者が自身で見るよりも、医師から伝えた方が良い情報もあるでしょう。ですから、医師のメモなど、個人医療記録には記されていないことも多いのです。HIPPAのルールによれば、患者は心理療法のメモを除く全ての情報開示を要求することができます。また、記録の間違いについては修正を要求できますが、修正が行われることはほとんどありません。誤診をなかったことにしようとする医師がいたら困りますから、注記を加えることはあっても、医療データ自体は変えにくくされているのです。

── 医療のビッグデータへの規制については、法律関係者の間でも意見が分かれているのでしょうか。

というよりも、法律が現実に追いついていないのが現実です。この分野に目を向ける弁護士も一握りしかいません。なぜなら、コンピュータ・プログラムなどの専門知識が必要になるからです。健康福祉省が電子カルテについて規制を設けましたが、それは非常に不完全な規制でした。今後、医療におけるAIやビッグデータの規制についても同省が中心となるでしょうが、現在は政府の力が強まることに抵抗する空気があり、規制を設けることは簡単ではありません。こうした規制は、大抵何か大きな事件が起こって、初めて求められるものなのです。

── 正確性やバイアスなどの点でまだ信頼できないという医療のビッグデータですが、数十年後には完璧なものになっていると思いますか。

完璧という段階に到達するかどうかは疑問です。デジタル化すればするほど、ハッキングのリスクは大きくなります。ハッカーに侵入され、データをいじられたらどうなるでしょう。面白半分に診断書が書き換えられる危険性もあるのです。あるいは、電気グリッドが攻撃を受けて、電気自体が使えなくなる可能性もゼロではありません。そもそも、コンピュータ画面にばかり目がいっている医師の診断を受けることは、果たして医療の向上と言えるのか。これらの解決策は私にもわかりませんが、人間的な要素を忘れてはならないことだけは確かです。ビッグデータであっても人間が監視する。全てをデジタルに頼るのではなく、医師が患者に触れて診断を下す。医療にはそうしたことが不可欠なのではないでしょうか。

Case Western Reserve UniversityCase Western Reserve University

シャローナ・ホフマン氏

Profile

シャローナ・ホフマン(Sharona Hoffman)

ケース・ウェスタン・リサーブ大学で生物倫理学を教え、同時に同大学の法律医療センターの共同ディレクターを務める。ウェルスリー・カレッジを経て、ハーバード大学で法務博士号(JD)を取得。専門は雇用差別、保険法、高齢化と法、医療情報テクノロジーなど。著書に『Electronic Health Records and Medical Big Data: Law and Policy』(ケンブリッジ大学出版局)などがある

Writer

瀧口 範子(たきぐち のりこ)

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。
上智大学外国学部ドイツ語学科卒業。雑誌社で編集者を務めた後、フリーランスに。1996-98年にフルブライト奨学生として(ジャーナリスト・プログラム)、スタンフォード大学工学部コンピューター・サイエンス学科にて客員研究員。現在はシリコンバレーに在住し、テクノロジー、ビジネス、文化一般に関する記事を新聞や雑誌に幅広く寄稿する。著書に『行動主義:レム・コールハース ドキュメント』(TOTO出版)『にほんの建築家:伊東豊雄観察記』(TOTO出版)、訳書に 『ソフトウェアの達人たち(Bringing Design to Software)』(アジソンウェスレイ・ジャパン刊)、『エンジニアの心象風景:ピーター・ライス自伝』(鹿島出版会 共訳)、『人工知能は敵か味方か』(日経BP社)などがある。

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