No.019 特集:医療ビッグデータが変える医学の常識

No.019

特集:医療ビッグデータが変える医学の常識

Cross Talkクロストーク

知られざる医学の進化の歴史

喜連川 優氏

── 医学の世界では「EBM(Evidence Based Medicine)」、直訳すると「根拠に基づいた医療」という言葉があります。これを初めて聞いたときに、少し違和感を覚えたのですが。

中山 ── 海外の臨床疫学者が、EBMに関する論文を初めて出したのが1991年のことでした(Guyatt GH. Evidence-based medicine. ACP Journal Club/March/April 1991: A-16)。この考え方は、我々のような疫学研究者には大きなインパクトを与えました。私も強い感銘を受けて「根拠に基づく医療がこれからは大事なんだ」と妻に話したところ、彼女も衝撃を受けたようで「それなら一体、これまでの医療は何に基づいて行われていたの?」と尋ねられました。

喜連川 ── 僕も、今まさにその疑問が浮かびましたよ(笑)。

中山 ── 以前の医療は、メカニズム論と臨床経験に基づいて行われていたのです。疾病のメカニズムを調べる研究はかなり進んでいましたが、いかんせん先にもお話ししたように人間を対象とした実証的な研究に基づくものは絶対的に不足していました。一方で臨床経験とは、臨床の現場で患者さん一人ひとりを診ていく中で培われたものです。しかし、その経験知は、医師個人に委ねられており、科学的な医学知識とするには致命的な落とし穴となるバイアスや交絡への配慮がほとんど無いものでした。こうした状況を改善するためEBMが訴えたのが、人間を対象とした臨床「研究」を積み重ねる必要性です。

1991年に論文が出たことを受けて、日本でデータに基づくエビデンスの重要性が言われ始めたのは、1990年代の後半からです。この頃に厚生労働省(当時の厚生省)がエビデンスに基づく、診療ガイドライン*4の必要性を訴えるようになり、状況が大きく動き始めました。

エビデンスに基づく医療とは何か

── 診療ガイドラインが整備される前は、例えば同じ病気に対しても、手術の術式が病院、つまり大学医学部の系列により異なるケースもあったという話を聞いたことがあります。

中山 ── 医師の臨床経験だけに基づいて行われる医療では、ありうる話です。各医師にとっての臨床経験とは、それぞれが研修医時代に所属教室の指導医に教わった知識や方法が原点となりますから。もちろん最新の術式などについての論文を読んで学んでいる医師も多くいますが、毎日を忙しく過ごしている医師が、十年一日の如く、となってしまうことも無いわけではありません。

血圧の基準値なども、かなり変わってきています。

50年ほど前には、年齢数+90mmHgとするような考え方もあり、私も学生の頃に俗説としてですが聞いた記憶があります。これに従うなら、年齢が60歳の方は最高血圧が150mmHgで正常値となります。1970年代にWHOが出した規定によれば、年齢にかかわらず最高血圧160mmHg以上、最低血圧90mmHg以上が高血圧とされていました。

現在、日本高血圧学会の診療ガイドラインによれば、いくつかの議論はありますが、140/90mmHgが高血圧の基準とされています。けれども、そもそも血圧の基準値を性別、年令に関係なく一律に考えてよいのかどうかという問題があります。また血圧に限った話ではなく、海外の臨床試験のデータなどを、人種が異なる日本人に当てはめられるかは慎重に考える必要があります。近年ようやく医療の根拠となるデータを重視する考え方がある程度普及した段階で、ビッグデータの時代に突入したというのが現状でしょう。従来のようなメカニズム論と個別の経験を無批判に最重視して臨床や健康政策の意思決定を行うことは危険とすら言えるでしょう。

ビッグデータを医療においても活用できるようになった今だからこそ、改めてEBMの原点に立ち戻って取り組む必要があるわけです。

[ 脚注 ]

*4
診療ガイドライン: 医療現場における適切な診断と治療の補助を目的として、病気の予防・診断・治療・予後予測など診療の根拠や手順についての最新の情報を専門家の手でわかりやすくまとめた指針。
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